弟子の唯円が、つづっている。
浄土真宗は南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人でも極楽浄土に行くことが出来るという教え。
それだけ懐の深い、豊饒な宗派だ。
この本を読む前の僕の認識は、『「ナムアミダブツ」というだけで、極楽浄土にいけるなんて安直な』というものだった。
そして、他力本願という考え方もすきでなかった。
結局、すべての事柄は自分次第でしょう、と思うところがあり、阿弥陀様に頼むなんてご都合主義、という感じがしたからだ。
浄土真宗というのは戦火や、飢饉にみまわれ、命を失っていく、気の毒な民衆を何とか救いたいというところから始まっているのではないか、ぐらいの認識だった。
以下、印象に残った言葉。
『「ワテらのやり方のほうがすぐれとる、お前らんのは劣っとる」なんぞといわはるから法敵もでてくるし、教えを謗るやつもでてくるんや』
『口争いなんてするところには、もろもろの煩悩が起るんや。賢いもんはなるべく遠ざかるんがええ』
『願を当てに作ってしまう罪も、宿業のもよおすためや。そやから、善えことも悪いことも、みんな業報ちゅうことにまかせて、ただひたすら本願におすがりすることこそ「ひとまかせ」というもんなんや』
以上すべて唯円
『善し悪しという文字も知らない人々はみんな、真実の心を持つのに対し、善悪という文字を知っているような顔つきの人々は、大きな嘘をついているのである』親鸞
この本を読んで完全な共感を得たわけではないが、大分、浄土真宗への見方が変わった。
無知な人や悪人を救うという観点もあるのだが、分かったつもりでいる知識人への戒めの教えでもあるのだ。
ソクラテスの「無知の知」にも通じるような、「あなたたち善悪を知っている顔をしているけど、誰がそんなことがわかるのかい」という深い問いを突きつけてくる。
「中途半端な知が一番良くないのだよ」と言われているような。
ここが歎異抄の胆であると思う。
読み書きの出来る人が少なかった当時の鎌倉時代に比べれば、現代人は皆、知識人といえる。
自分も知らず知らずのうちに知識人ぶっているということを、唯円に見透かされてしまっていた感じがした。