究極の選択

小さな丘。丘の上の恋人。

誰を待つでもなくひとり佇んでいる。

世界。世界の絆とともにわたしは歩んでいく。

笑顔の中に何かを控え、飛び立つ鳥のごとく、さえずりを控えながら、わたしはわたしであることを、しばし忘れ佇んでいる。

今日より明日、明日より今日と。

願いは叶うことなく私のそばで泣いている。究極の丘、嘆きの丘で。

もう二度と帰ることのない旅へと、すすんでいった嵐のように。

わたしはいったいどこへ。世界の果て。究極の選択。始まりと終りへと。返す返す。

心を込めて丹念にたどっていく鳥。鳥たちの群れ。

わたしは四季徒然にただそれを眺めていた。こどものように。年端もいかない子どものように。

すべては究極の選択であり、人生は選択の連続である。とりあえず、という保留は思考の停止でしかなく、わたしたちは日々選択していかなければならない。

選択がわたしたちを疲れさせることも事実で、脳のリソースは限られているので、無駄な選択はしないで、自動運転にしておくという選択もある。

例えば、毎日同じ服を着るとか、週替りで服を決めていおくとか、献立を決めておくとか。ルーティンを決めておくとか。限られた脳のリソース。

子供の頃の記憶。すべての悲しみをたずさえて。慈悲の心を主体としたブッダ

人、生命の根源は悲しみとしたブッダ。慈しみ悲しむ。悲しみを慈しむ。悲しさを分かる人間の姿は美しい。どんな生命もやがて死を迎えることに、ブッダは慈悲を感じた。

右往左往、どんな立派な生き方をしても、どんな人に迷惑をかけた生き方をしても、何もしなくても、どんな生命もやがて死を迎える。

死だけは平等に皆に与えられており、その死の宣告がいつになるかは誰も分からない。穏やかな死。非業の死。残酷なまでの死。

死 生 輪廻 すべては循環の中に

死生観。現代の日本人は死生観に欠けていると思う。

ただただ長生きすれば良い、死を恐れ、死にたくないから生きているだけに見える。

そして進んでいく医療。

ただただ長く生かすだけの治療。延命治療。

その医療行為により、病院の経営も健全に保たれる。

生きているのか死んでいるのか分からない、希望を持てない老人たち。

そのつけは若者世代に税金としてのしかかってくる。

年寄は皆死ね、とは思わないが、ひとつ『楢山節考』のような死生観を見直しても良いと思う。

年寄りが自ら死を選び、若い者たちに道を食料を譲っていくという『楢山節考』の世界観。

もし、船が沈没しかかっているとしたら、老人から海に飛び込むべきなのだ。

子ども、女性、若者の順で守っていかなくてはいけない。

それが生物の性といえる。

ある程度の年をとったのなら、死を覚悟するべきだろう。

ましてや子を生み、育て上げ、その子が独立しているというのなら、無理に生に執着する必要などない。

死は終わりではなく、新たな再生とも言える。

ただただ長く生きるだけの日々。そこに喜びや意味はあるのだろうか。

唯一無二である地球の永続性

悲しみ。思考の果て。すべてを繰り返すひとたち。

人々の群れ。風の谷。世界の始まりと終わり。人の始まりと終わり。

すべての分析とともに。すべては分析から始まり、分析に終わる。

誰かの記憶とともに。誰かが言った何かを鵜呑みにしないように。自分の頭で、真に自分自身の頭で考えられるように、すべての記憶を整理して生まれていく。

流麗な風、流麗な鳥、すべては川の流れのように

誰かが失った希望を、誰かが取り戻すように。

誰かが失った記憶を誰かが取り戻すように。

すべては思考の果てになにもかもが進んでいく。

すべては人類の発展のために。全人類の世界平和のために。と人は言うけれど、それは本音なのだろうか。

本音は自分と自分の仲間、ペットなどまでの幸せで良いと思っているのでは。

世の中にはとんでもない悪人や狂人もいるわけで、やっぱりそんな人ととの共存は勘弁してくれというのが本音じゃなかろうか。

犯罪者にもそこに至るまでの、様々な諸事情はあると思うが…。生まれや教育、遺伝子そのものなど…。

彼ら彼女らとの共存を望んでいる人は、本音ではいない。死刑は残酷だとも思うが、一生、刑務所からでて欲しくない、というのが本音だろう。

思いやりを一切持てない人間。協調性、優しさの一欠片もない人間とは、人は共存できないのだ。

社会不適合者もひとりでは生きられないので、コミュニティを作るが、結局精神が未成熟な人が多いので、そのコミュニティ間も争いが絶えなくなる。

自分は因果応報というものを信じているし、すべての罪は自分に返ってくるし、そこから逃れる術はないと思っている。

一時的に逃れたように見えても、廻り廻って、その人はその償いをすることになる。

自分はこの美しい地球の循環が続けばいいと思っているし、その循環を人が弊害してしまうようなら、業として人が減ることも仕方がない、と思っている。

あらゆる天変地異は自然の循環のゆえにも見える。

温暖化による台風被害、地震により建物が壊される被害。

人間側に立たなければ、汚れた空気の清浄化や土壌の浄化のようにも見える。

人が一人死ねば、人に食べられるはずだった生き物がそれだけ生き残る。

家畜という残酷性も、あらゆる感染症がそこからくるように、一種の自然の仕返し、業のようにも見える。

あまりに人間本位、人間万歳、ヒューマニズム万歳には賛同できない。

ひとはあまりに増えすぎたので、もっと謙虚であるべきだと思う。

生に執着することなく自然のままに生きていく。

行き過ぎた延命治療、不老長寿もわたしには無駄なことに見える。

死に抗う行為、自然に抗う行為、ひとは自然に抗って、ここまで発展してきたと言えるのであるが、おそらく唯一無二であるこの地球の永続性、発展を考える時期ではないだろうか。

資本主義と至高の精神

小鳥のさえずりで目を覚ますように。季節の始まり。あたたかな日々。

静かな声と誰かの罵声。夢の絆において。

ヴァーチャルな世界。リアルでない世界。

僕らは生まれたときからメディアの洗脳にあい、侵される。

リアリズムを放棄した世界。

圧倒的伝聞の世界。

誰彼の見聞きした体験が、何重の伝聞を経て我々に入ってくる。

有害無害に関わらず、われわれは生まれたときから、情報の洪水に飲み込まれるわけだ。

そのなかから探さなければならない真実。

圧倒的リアリズム。

借金を背負ってしまう人、生まれながらに借金を背負う人、浪費家の人、結局、子どもは親の背中を見て育つので、親の教育、金銭感覚の影響を受ける。

現代、資本主義においては浪費や消費を促すようなしかけが、様々なところで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

宣伝広告、メディア、芸能、音楽、華やかなイベント。酒、高級車、高級時計に宝石類、タワーマンションに別荘地。海外旅行に高級レストラン。圧倒的富裕層の生活を報告するメディアたち。

資本主義というのは結局、成長し続けないと持続不可能。

浪費、消費し続けないと持続しないのだ。

資本主義においての頂点、資本家、株主を喜ばせるために、経営者は常に会社を成長させ利益を供給し続けるしかない。

そこに停滞や妥協は許されない。そういった企業は買収され、新たな新興企業に飲み込まれる。

資本主義というのは我々の欲望を原動力にエンジンとして動いていると言っていい。

我々が欲望をなくしたとき資本主義は停滞し崩壊する。

そういった意味では清貧を重んじる、宗教や思想とは相容れないと言っていいだろう。

しかしキリスト教、仏教、ヒンズー教道教ストア哲学、など多くの思想は清貧を重んじる。結局、人間の精神の到達は、モノでは達成されないということなのだろう。

白いキャンパス。そして思考のはて

人はどうしてこんなにも何かを考えていくのだろう。

思考の先に発展があり、いまの世の中の便利なモノたちは皆、試行錯誤の果てにある。

人は考える葦である。我考えるゆえに我在り。と人は思考するゆえに人であると言える。

そしてAIは思考の先に、AIは人より考えることをしていくだろうか?

そして人は考えることをしなくなるだろうか?

わたしは、ところでわたしは、圧倒的1人称のわたしはどこへいくのか。どこへいきたいのか。どうしたいのだろうか。

人はひとえに圧倒的自由であるはずなのに、生きていく経験や、情報によって、不自由になっていく。安心と引き換えに自由を失っていく。

そう自由とは不安なものであり、手探りで、まっくらやみのなかを歩んでいくようなものなのだ。

すでにクリアしたアドベンチャーゲームは楽で安心だが、面白くはない。

その圧倒的経験は不自由さも生んでしまう。

まだ未知のゲームは手探りで不安だ。だが何をしてもいい、どんな選択肢もあるという自由さがある。

もし今不自由さを感じているのなら、それは安心安全な世界だからだろう。

安心安全な世界は、危険がなく、ありとあらゆる危険な選択は排除されて、とれなくなっていく。

僕がインドに行ったときに感じた自由さは、圧倒的不安をともなうものだった。

新しい仕事をするとき、新しい物事にチャレンジするときは、不安がともなう。

しかしそこにはワクワク感と自由がある。

一寸先は闇、落とし穴がある危険もある。

しかし自由であることは予測できないことなのだ。

圧倒的な白紙のキャンパスに何を描くかは自由だ。絵なのかもしれないし、文字なのもしれない。何も書かないのかもしれない。

それは不安を伴う自由なのだ。そこに問題集や、テストのようなもの、課題が書かれているのなら、人はそれをやるだけ。

そこに不安はなく、だだその課題をこなしていくだけなのだ。その課題を何にするかを、私自身、僕自身が決めなくてはいけないのに、なぜかすでに書かれている。そんな感覚。

むしろ白紙だと気づいたときに圧倒的不安が広がっていく。

僕達人間は、親や先生、大人たちから色々な情報を得る。危険なこと、失敗することを避けるように。不幸にならないように。それは大人たちの親切さではある。

ただ、それが不自由さを生んでいるのだ。もうすでに分かっていること、明らかなことでも、失敗や試行錯誤を自分自身で繰り返して、たどり着いた答えにこそ意味があるのではないだろうか?

別にそれを誰かが知っていることでもいい。

圧倒的思考のもとに私達は進んでいけばいいのではないだろうか。

暗い影を、長い影を残したそれ

見えている景色。世界の果て。生と死。光と影。

わたしは死に近い仕事をして、死と間近に接して何を想うか。

自ら死を選ぶ人たち。

総じて人の世は自死を良しとしていない。ほとんどの宗教は自死を認めていない。

ネット上でもそんな言葉を発したらはじかれてしまう。

でも、一定数、かなりの数の方々が自ら死を選ぶ人もいる。

そこにはどんな事情があるのかは、結局は本人にしか分からない。

ただ、一方的に自死を選んだ人たちが悪いとか、地獄に落ちるとか決めつけるのは、まったく理解できない。

反論をすれば、太平洋戦争中の決死隊の方々。白虎隊。新大久保で線路上に落ちた人を助けるために命を絶った韓国人の若者。暴走列車を止めるために、自らの身体を投げたした『塩狩峠』のモデルにもなった長野さん。自分の信念を貫くために、自ら死を選んだ人たち。

日本でも切腹という文化があった江戸時代の前には多くその選択をした人はいたであろう。

世界でも宗教や哲学、自分の信念を貫くために、迫害への抵抗として自ら死を選ぶひとたちがいた。

こんな人達をみな否定することが、この人生を否定することが果たしてできるだろうか?

もしかしたら自死は人だけができる崇高な選択だともいえるのではないだろうか?

もちろん自死を称賛するつもりも、推奨するつもりもない。

自死を選んだ人たちの遺族の悲しみは、とてつもなく深い。

涙も流せない人もいるし、何もできなかったと、自らを責めてしまう家族もみてきた。

その人達に掛ける言葉はないし、目を背けてしまいたい場面でもある。何でと。

その答えは、亡くなった方々しか分からないし、永遠に家族が、ましてや赤の他人がわかることではない。

そこに残された遺族に救いがあればいいと思う。

暗い影を長い影を残したそれは、我々に何を語るのだろう。

ひとはアメーバーのような存在である

わたしを疲れさせて欲しい。

魂がふるえるほどの苦悩。空、称賛。傷を負った若者。

傷を負った娼婦。振り返り、揺り返し。空。希望の光と共に。

太陽のさす部屋。小さな灯火。小さな夕刻。落下した夕刻とともに。

走り出した私達。魂の叫びに似たなにか。

なにか狂っているような世界。狂い出した昨夜。夕の夜。

遅れているチャイムの音。傷ついた朝日。傷ついた夕刻。

誰も傷つくことなく、誰にも縛られることなく、振り返る。

たしかな灯火。たしかな空。たしかな未来。不確かな未来。

誰もが夢見たであろう何か。

醜悪な大人と純粋なこども。こどもの純粋性。純度の高さ。

大人の醜悪さ。暴力の連鎖。一重にたどりつく太陽。

やわらかな鳥たち。傷ついた鳥たち。

水の背中。水の鳥。水とともに歩む。

平凡な朝日。平凡に生きる人々の群れ。

わけの分からぬ人々の群れ。

群れたくない人の群れ。

流星の空。美しい人。美しい顔だち。

美しい立ち姿。醜い人。圧倒的醜さとともに。

美醜、比較。すべては比較からはじまる。

平安時代美人画は今見たらブスだ。逆もまたしかり。

人の基準など、そんなもの。

時代、人種、流行りすたりがある。

だから本当はそんなこと気にせずにとらわれずに生きればいい。

人と比較しなければいい。

ただ、人は比較が好きな生き物であることも事実。

比較、実験により発展してきたことも事実。

ただ人とある面だけ比較して、卑下したり、優越を感じたりすることは無駄なことであり、決してメンタルに良さをおよばさない。

人は立体的な存在であり、かつ流動的でもある。

人の、特に内面はアメーバーのような存在なのだ。

アメーバー同士の一点を見て、比較することなど無駄なことだろう。無意味なことだろう。

今あるもの、今あるすがたで勝負するしかないし、そこで今なにかの勝負に負けたと感じたなら、勝つための努力をするか、違うジャンルの戦いに戦場をうつせばいい。

とにかく劣等感など、感じる必要はないし、そんな暇はない。

そんなことは暇のなせるわざであり、くだらないことである。

金、姿、生まれ、その比較になにの意味があろう。

人の評価などあいまいなもので、人が人を評価するなどおこがましい。

勿論、個人的な価値観はあっていいのだが、たとえば学校の通知表などは、その人物の本当に一点でしかない。

そんなもので、先生の視点だけで、その人物の何がわかっているというのだろう。

テストの点数だけで何がわかるというのだろう。

偏差値教育、官僚制度。

これらはAIの発展で終わりを告げると思う。

どう考えても、偏差値でAIに勝つことはない。

一点の隙もない文章はこれからAIが作ることだろう。

法律もしかりだ。

我々人類の英知はAIに集約され、やがてAIが自ら学習していくだろう。

そこでわれわれ人は何をしていくだろう。

何に優越をつけていくだろう。

何に優越をつけたがるだろう。

ただの傍観者になりさがるのか、圧倒的偏執的なアートを目指していくのか。

非合理的な生き方にシフトしていくのか。

一切無駄のない世界。

無理のない世界。

われわれの未来はハッピーなのか。

そうではないのか。

誰もが穏やかにすごせて、地球も永続的に続いていくような世界。

気候変動、ありとあらゆる生命の尊厳を大事にする世界。