『幸福論』 アラン著

(1いらだつこと、より)

ほんとうの体操というのは、ギリシャ人のよく知るとおり、正しい理性によってからだの動きを支配することである。

アランは脳と体の相関関係を指摘している。いらだちや怒りなどの情念は体の不具合からくることがあるから、冷静に体の部位の違和感を感じ取り、対処しなさいということだと思う。

 

(4ノイローゼ、より)

自分がほんとうに得たいと思うものを欲すること、これは往々にして、人生の極意でもある。

ノイローゼ気味で悩んでいる友達に対して、アランは考え過ぎなほうがよい、喜びも悲しみも、その理由は言葉では説明できない。歩き方や、注意力、本の読み方などの様々な外的要因で、人の体は躁から鬱へ、鬱から躁へとゆらいでいるのだから、と声をかける。そして、じぶんがほんとうに好きなことをしようとすれば、憂鬱は小さくなるよ、と説く。

 

(5憂鬱、より)

あの人たちはどんな考えに対しても悲しい理由をちゃんとみつけてしまうだろう。

憂鬱症に悩んでいる人は、自分自身との問答であれこれ考え過ぎてしまう。深い悲しみは体が病んでいることから来る。だから、あまりその痛みや病気についてあれこれ悩み考え過ぎるのはよくない。祈りによってその考えを止めるのも一つの手だという。

 

(6情念について、より)

君が撃った矢は一本残らず君の上に落ちてくる。自分自身が敵なのだ

情念はわれわれが考えるところから始まっている。

恐怖で逃げ出した時に、夜、一人で暇な時に考える恥。その恥についてあれこれ考える。

デカルトは『情念論』のなかで、夜、静かな時に激しい考えが浮かんでくるのは、神経と脳のなかを行き来する、あるふしぎな流体の運動によるものだといっている。

要は情念は脳のバグのようなものだと思い、情念について考えるのはやめなさいということだろう。

 

(9想像上の苦痛、より)

死をうけとめることができるのは生きている人だけである。悲運の重圧をうけとめることができるのは幸福なひとだけである。つまり、すべてを言ってしまえば、人間は自分の苦悩よりも他人の苦悩に対して敏感になっている。

誰かの不幸を見て、いつくるかもしれない不幸を想像し、恐れを抱くのはやめなさい、ということだろう。全力をもって、真の叡知をはたらかせて、自分自身の現在を考えなければならない。

 

(10アルガン、より)

自分の周りの人々や事物のせいにしないで、まずは自分自身に注意を向けるのが賢い道であるということだ。

何か苦痛や困難が生じたときには、他に原因を探すのではなく、まずは自分の身体に注意をむけよ、ということ。

 

(12ほほ笑みたまえ、より)

不機嫌という奴は、自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。

アランは不機嫌というのは礼儀正しさを忘れることから生じると考えている。そして不機嫌は連鎖するとも考えている。われわれ人間にはそれを克服するだけの知恵がないので、礼儀正しさに救いを求め、ほほ笑む義務を自らに課す。

 

(13事故、より)

しかし、そんなふうに想像できるのはじっくり考えてみる時間があるからなのだ。

事故を自分の頭で再現して自ら恐怖を味わう。現在の痛み、苦しみなどは無に等しい。われわれは痛みを苦しむことよりも痛みを恐れる気持ちの方が強い。

 

(15死について、より)

戦争のほんとうの原因が少数のひとたちの退屈にあることは間違いない。彼らはトランプ遊びのように、はっきりした危険がほしいのだ。

平和を愛する人たちは自分の手を使って仕事をしている。

われわれの敵はいつも想像上のものなのだ

下手な考え休むに足らず。退屈から想像する恐れが、病気となり、いらだちを産む。それを振り払うのは行動しかない。

 

(16心のしぐさ、より)

優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうのもだ。

お辞儀をしたり、ほほ笑んだりするしぐさは、反対の動き、激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまう。社交生活や訪問や儀式、お祝いが好まれるのは、それが幸福を演じるチャンスだから。

 

(23乙女の心、より)

賢者はさまざまなしるしや話を刈り込む。腕のいい庭師のようなものだ。

反対に臆病な人間は何でも心にとどめ、意味づけようとする。

 

(27欲すること、より)

仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のやることだけを考えるべきだ。

あまり先読みし過ぎないで、目の前のすべきことからコツコツと行動する。

 

(30絶望しない事、より)

不幸なことに、絶望には確信がつきまとう。いや、確信どころか、やわらかな思考を拒絶する絶対的断定が。

絶望している人は頑固になっていまい、新しい視点を持つことがなかなか出来ない。そして、そう自分を欺いているのは思考である。想像力は、習慣によって強固になる。これを打破するのは現在の行動しかない。「現在には力と若さがある、どんな時も」とアランは語る。

 

(31大草原の中で、より)

快楽は知性の光を暗くし、ついには消してしまうから

ああ、そうなのだなあと思う

 

(40賭け、より)

戦争が生まれるのは退屈だからだ。

自分で不安や怒りをつくり出して、それに夢中になるのである。

金持ちで暇のある人間が、有害であるということ。

 

(41期待、より)

たぶん彼らの本当の楽しみは、主に、たくさんの従業員に対して命令ができることから出てくるのだろう。

一日の儲けが分からない大企業の幹部達に対して。

しかし、暇のある人間はほとんどみんな、トランプやさいころに飛びつき、切り離すことのできない双子の姉妹、期待と不安とを愛してやまないのである。

古代から伝わる神の幸運を願う行為。

 

(42行動すること、より)

幸福と快楽とはたいへん異なった二物で、隷属と自由ほどの相違がある。

人は、棚からぼた餅のような落ちてきた幸福はあまり好まない。自分でつくった幸福が欲しいのだ。

自分の意志で作り出す労苦は幸福と言える。それは快楽とは別物である。

 

(43行動の人、より)

知覚と行動というこの二つの水門が開かれる時、生命の大河が人間の心情を、軽やかな羽のように運び去っていくのである。

なぜ戦争が起こるのか。人間は行動のなかにおぼれてしまうからだ。

行動は思考を消し去ってしまう力がある。それは、憂鬱な心や厭世観を消し去り、今を生きているという幸福感を生むが、正義さえも消し去り、野蛮な行動を良しとしてしまう危険性もはらんでいる。

 

(44ディオゲネス、より)

人間はもらいものの楽しみにはうんざりするが、自分で勝ちとった楽しみはすごくすきなのだ。

人間は行動のない楽しみより自分で行動できる労苦を選ぶ。

 

(47アリストテレス、より)

どうしても自分で作りだす必要がある。

音楽も絵も芝居もただ、見たり聞いたりしているだけでは本当の楽しみは得られない。自分でやってみなければ。

知ることが多くなればなるほど、学ぶこともますます多くなるのだ。

本当の幸福についても、それは人から与えられるものではない。それは自分で学び続けて得られるものである。

「楽しみは能力のしるしである」アリストテレス

自らの意志で、何かをする。何かを学ぶ。それは楽しみとなる。そして、それを続けることは能力となる。

 

(48楽しい農夫、より)

もっとも自由な労働というのは、労働者自身が自分のもっている知識と経験にもとづいて調整する仕事のことである。

他人から細かく命令されたり、規制のある労働を人は好まない。適度な自由さが労働の喜びを生み出す。

ただし、主人は退屈するであろう。だから、賭け事やオペラ女優にうつつを抜かすことになる。社会の秩序が乱されるのは、いつも退屈さからだ。

自由な労働環境を与えれば、労働者は楽しみを見出せるが、主人はすることがなくなってしまう。支配者は退屈しないために、新規の仕事を計画、作り出さなければ、社会秩序を乱す方向に流れてしまう。

 

(50始めている仕事、より)

美しい主題には気をつけねばならない。眺めていないでそれにすぐに近付きとりかかねばならない

想像しているだけではダメで、実際の行動、仕事に取り掛からなければならない。どんなに美しい主題も、実際の仕事に取り掛かったら想像してたものと違って、がっかりすることもある。実際の仕事を通して、新しい創造や、喜びが生まれる。

 

(51遠くを見よ、より)

自分のことなど考えるな、遠くを見るがいい

広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼はやすらぐ。憂鬱な人は、たいがい近視眼的になっている。

学問とは知覚でなくてはならない、旅立ちでなければならない。

野心に取りつかれた学問、むだ口をたたく学問、いらいらした学問でないほんとうの学問。ほんとうの学問とは、どんな小さなものでも全体とつながっているというその構造を理解することである。どんなものでもその存在理由を自己のうちにはもっていない。こうして正しい動きによって、われわれは自分自身から遠ざかる。

 

(52旅行、より)

風景のもつほんとうの豊かさは、その細部のなかにある。

同じものをちがう角度からながめる旅。習慣の中に眠り込まないためには、ゆたかで変化に富んだ一つの光景を選びさえすればよい。

 

(55泣き言、より)

よろこびは権威的ではない、若いがゆえに。一方、悲しみは王座にあって、いつも過度にあがめられている。

悲しみの言葉は、異様な説得力をもって、われわれにせまってくる。その言葉は外套でも拡げたように何もかも包み込んでしまう。さらに、そういった言葉は伝染するから気をつけなくてはいけない。われわれは悲しみに抵抗しなければならない。悲しいことがあったとしても、悲しんでいるだけでなく、決然とその事実と向き合う強さが必要ということだろう。

 

(59他人の苦痛、より)

豊かな感受性をもつ人がいつも人間嫌いなわけがそこにある。

人間のことばの伝える意味に対する用心から孤独をもとめる感受性の強い人間を、すぐエゴイストと決めつけるのは早計であろう。

モラリストであるラ・ロシュフコーは「われわれはいつも他人の苦痛に対しては耐えうるだけの力がある」というが、アランは「自分の苦痛に対して耐えうる力がそなわっている」という。

モラリストのいうことは理想論であって、アランは現実には他人の苦痛を担うのは大変なことだ、と考えるリアリストなのだろう。

 

(63雨の中で、より)

なぜなら、ものごとは何でも、始めにどんな態度を取るかによって決まってしまうことが多いからだ。

不満を言い出したらきりがない。だから、始めに嫌だと思う出来事にも、楽観的にとらえる態度をしめしておく。微笑んでみたり、笑いに転換してみたり。悲しみは、悲しみを生んでしまう。だからこそ、態度が大事。

 

(66ストア主義、より)

しあわせになる秘訣の一つは、自分の気分に無関心になるということだ。

あやまちや悔恨など、自己を責めるいっさいのみじめな反省から、ほんとうの自分を切り離すこと。「この怒りだって、おさまりたくなれば、おさまるさ」ぐらいに考え、突き放してみれば、吠えていた犬が犬小屋に帰るように動物的な生に戻る。

 

(78決断拒否、より)

どんな行動のなかにも賭けの要素がある。

あれこれ考えすぎ、決断をしないのであれば、何もしないの同じである。ひとは偶然にすべてを賭ける勝負事が気に入っている。この偶然の勝負事には魂の高貴な部分がしめている。

とにかくあれこれ考えすぎず行動しよう、ということだろう。そこに賭け事に似た魂の高揚がある。

 

(79儀式、より)

なるほど、考えるのは楽しいことである。だが、考える楽しみは決断する術によって支払われる必要がある。

規律や権力、流行は決断拒否をなおすにはじつによく効く。有無をいわさず行動するという点で知恵がある。思考は楽しみでもあるが、無限の堂々巡りになってしまうこともある。

考える人、デカルトは思考から自由になるために従軍という方法を決断した、とアランは語る。

 

(80新年おめでとう、より)

君が上機嫌であることをお祈りする。これこそ交換し合うべきものである。これこそみんなの心を豊かにする、まず贈る人の心を豊かにするほんとうの礼儀作法である。

不機嫌が不機嫌を生み、怒りが怒りを生む。それは伝染する。暴れ馬は手綱を引っ張ろうとすれば、するほど暴れる。手綱を緩め、肩の力を抜き、微笑むだけでよい。暴れ馬はおさまり、全ては好転していく。

 

(84楽しませること、より)

つまり荒ぶる情念をなだめる体操なのだ。

アランの考える礼儀作法とは、ほほ笑んで、思いやりのある態度をみせること。これが情念をなだめる体操である。

 

(87克服、より)

自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。

そしてそういう義務は遠くから見るかぎり、おもしろくない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

自分で決めた、自由な行動が幸福感を生む。今でいうオタクだろう。物事によっては傍目から見たら、それは奇怪に映ったり、不快に思われたりする事もあるかも知れないが、とうの本人にとっては幸福そのものである。

 

(88詩人たち、より)

しかし、彼がほんとうに彼であって欲しいと思うこと、これこそ真実な愛である。

ゲーテとシラーはお互いに相手の精神性をみとめあっていた。真理や理想について話し合いながらも、それぞれ固有の天分を忘れたことはなかった。詩人というのは、自分には何ができて、何ができないかを、幸福から告知されている。

底意地の悪い人たちはみんな、退屈さに不満をかんじているのだ。

ゲーテとシラーは自分の持っている真理を理解し発揮していた。反対に底意地の悪い人たちは、真理を全く発揮していない。そして退屈している。盲目的な、機械的な諸力のいうままに行動している。アリストテレスは力のしるし(自分の持っている真理)を理解することが幸福であると言った。アランはこの力は誰しも備わっていると考えている。ただ、気付かないだけだと。

そして、力のしるしを理解した人がつくり出す芸術作品は人を益する。人を益するわざというのはみな美しい。

 

(90幸福は気前のいい奴だ、より)

子どもにとって遊びの魅力はほんとうにすごいもので、空腹やのどの渇きをかきたてる果物の魅力でさえもそれに及ばないのだ。しかし、ぼくがそこに見たいのはむしろ、遊びによってしあわせになろうとする強い意志だ。

幸福になりたいと思ったら、そのための努力をしなければならない。ただ、待っていても入って来るのは悲しみである。何一つやることのない子どものように。

ただ力いっぱい、動きまわり、コマをまわし、走り回り、大声をあげてみるだけでいい。行動が欲望を生み出す。

上機嫌というのは実に気前のいい奴なのだ。

エゴイストは幸福が向こうからやってくると待っている。誰かが幸福にしてくれると。だから、エゴイストは憂鬱である。

反対に上機嫌は何かをもらうというのではなく、むしろ人に与えている。

自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。

礼儀作法は外見の幸福である。礼儀正しい人たちはただちに報酬を得ている。

われわれ人間が求め合っているのは、ただ自分自身にとって最大のよろこびをもたらすものだけである。

憂鬱な暴君は、しばしば、心のなかでよろこびを何ものにもまして強く輝いている人たちに、ころりとまいってしまう。

 

(91幸福になる方法、より)

すなわち自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ

アランがいう幸福になるための第一の規則。悲しみは毒みたいなものである。誰でもみんな、生きることを求めている。死ぬことではない。

それゆえ、交際は家族の外に拡がる必要がある。なぜなら、家族どうしの仲では、しばしば、打ち解けすぎて、心を許しすぎて、少しでも他人を楽しませようという気があれば考えもしないようなささいなことで不平不満をいうからである。

つねに新鮮なひとたちと会って愚痴をいう暇などないようにしようということだろう。アランは君が苦しみを語らなければ、ぼくの言うのは小さな苦しみだが君は長くそれを考えてはいない、と語る。

 

(93誓わねばならない、より)

悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。

気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる、とアランは言う。気分というのはいつも悪いものである。上機嫌などは存在しない。幸福とは意志と自己克服とによるものである。

憂鬱な思考はすべて、自分をだます魂胆だと思ってさしつかえない。そう考えてよいのだ。なぜなら、われわれは何もしないでいると、すぐに自ずと不幸をつくり出してしまうものだから。

中途半端な考えは絶対にしない方が良い。思考に没頭するか、それとも全然考えないか、どちらかである。自己支配を欠く思惟はすべて、誤ったものだという経験を活かすことだ。

自分の思考を客観視するということだろう。その為には思考を書くという行為が有効かもしれない。

 

感想

総じてアランの言いたいことは、「幸福になりたい」なら自分の強い意志が必要だ、ということだと思う。幸福は待っていて、来るものではない。自分の行動と思考の中にあるのだということ。そして、その為には無用な考え過ぎはやめ、ものごとを楽観視する。礼儀正しさ、ほほ笑みを大事にする。気分が悪い時は、体操など、体から整えていく。自分自身が幸福でないと、他人に悪影響をおよぼしてしまう。ということだろうか。

ひとは気分のままに生きていたら、悲観的になってしまう。それは太古の昔、生命の危険を感じることが多かったから、最悪を想定するくせがDNAレベルでしみついているのだろう。しかし、現代生命の危機は大分なくなった。そのかわり退屈さという副作用ができた。退屈さから憂鬱な気持ちが生まれ、それが他者にも伝染してしまう。ほほ笑みと、楽観主義という強い意志を持って、それと戦う強い意志をもつ。そして、それはきっと勝つだろう。憂鬱と同様、幸福も人に伝染するものであるから。

1925年に初版のこの本は、現代出回っている自己啓発本のかなりの元ネタになっているのではないかと思われる。