映画『主戦場』を見て

日韓の慰安婦問題。

少女像や賠償問題で未だに政治の論争の一つになっており、解決の糸口が見えない。

この映画は日本軍が慰安所を作るにあたり、軍の強制があったとする側と、なかったとする側の論客の主張を、監督との問答形式で羅列していく。

なかったとする方は資料がないから、といい、あったとする方は、軍が業者の人さらいのような行為を黙認していた点をあげる。

映画を観る前、少女像については、何を今さら。とか、しつこい。といった気持ちがあった。

しかし、元慰安婦たちが長い間、声を挙げられなかったのは、女性の純潔を重視する韓国の家父長制度が根強く残っていたこと。1965年の日韓合意には東西冷戦に対応するために、日韓を仲良くさせたいアメリカの思惑が強く働いたということも、この映画で初めて知った。

結局は、日本はまだ、先の大戦に対する謝罪をしきれていない、ということだろう。多分、金の問題ではないのだ。加害者は相手がもういいというまで、被害者に心から謝り続けなければいけない。許してくれないからと言って、じゃあ、もういい、とふて腐れてはいけないのだ。いじめや交通事故、殺人事件の問題と同じだと思う。被害者の意識としては、それは永遠に刻まれたトラウマになる。

強制があったにせよ、なかったにせよ、軍の慰安婦とされた事実はあるのだから。貧しく、学のない未成年の少女を性産業で働かせたという、事実は動かない。

ここで、あえてナショナリスト側の視点で見てみる。こちら側の危惧するところは、日本人が貶めらているという感覚だろう。少女像まで使って、アメリカを味方につけようとして、どこまで日本人を追い込むのかと。そして、戦争なら慰安所の問題ぐらい仕方がないだろう、つべこべいうな、という所だろうか。韓国、中国は先の大戦を理由にまだ、金をせびろうとしている。なんて、民度のない国だと。慰安婦のいうことなど、あてになるか。証拠をだせ、と。

映画を見てて思うのは、ナショナリスト達は、ほんとうに自分たちだけなのだな、ということ。情報も自分の都合のよい情報しか信じない。客観視しない。最初に結論ありきで、相手側の視点に立たない。それのどこが美しい日本人なのだろう。韓国人の学校でヘイトスピーチを行う人たちの声、表情は、目を背けたくなるぐらい醜い。同じ日本人として恥ずかしく思う。

「国家は謝ってはいけない。絶対に」と凄む、つくる会の副会長、藤岡信勝。その言葉に、ぼくは呆然とする。これは現代の日本の人なのかと。そして、この人が日本の教育を憂えて、新しい教科書を作ろうとしているのか、と。

そして、慰安婦問題についての他の人の著作は一つも読んだことがない、と悪びれずに言う日本会議加瀬英明。偉そうに慰安婦問題を語る。

ナショナリスト達を画面越しに見て思うのは、この人たちの目が鋭すぎること。その瞳は何を見ているのだろう。映像はしゃべり方、トーン、表情、しぐさ全てを映し出す。

そして、そこに非常に近い位置にいる、安部内閣

戦争をして、最も被害を受けるのは、きっと女性、子供、一般市民だろう。あたまの良い人、権力者は、決して最前線にはいかないのだから。

追記。

従軍慰安婦の問題にしても、南京の問題にしても、歴史的な大小の検証は必要だとは思うが、あったことを無かったことにして、戦争の悲惨さを忘れさせるのは間違っていると思う。

日本人が悪かったというのではなく、戦争という異常な環境は人を狂わせてしまうということ。日本がしたことは内省的に反省し、二度と戦争という悲惨な状況が起きないように、国民一人一人が強く再認識しないといけない。その為にはその記録は消すべきではない。左右の対立としてでもいいから劣化、忘却してはいけない問題かと思う。

どうしても人間は忘却の生き物。やはり憲法9条という権力への鎖は解かない方が良いと思う。