映画『復讐するは我にあり』感想

結局、この鷲津巌という男は何だったのか。

突発的にはした金の為に、簡単に人殺しをしてしまう。

弁護士や大学教授にまでなりきって、手の込んだ真似をしながら、はした金の為に人を殺めてしまう。そこには主義主張などないのだろう。

ただただ、自分の突発的な欲望の為に人を殺してしまう。まるで獣のように。

そう彼はただ欲望のままに生きる獣なのだ。誰とつるむでもなく、誰と組むでもなく、ただただ己の欲望の為に、生きようとする。

彼は清々しいまでに一人だった。誰の共感も得ようとしないし、誰に対して共感することもない。一種のサイコパスであり、人の世界で生きていくことなどできない。

恐ろしいまでの孤独を受容している人間であり、いやもはや人間でないのだが。

人間の業。生き物としての業。そこに従順に生きているけだもの。

そして、彼に翻弄される周りの人間たちも、それぞれに欲と業を抱えている。

清川虹子、小川眞由美、三國連太郎倍賞美津子、皆、それぞれに欲を抱えながらも、それを隠し、人らしく人間社会に順応するために生きている。

ただ巌だけが、欲望を隠すことなく、ひたすらに欲を解放して生きていく。犯罪者というのは欲のままに生きていく人。自らの生と性の為に、他から奪い、むさぼり喰らう。獣たちをみればわかるように、それは原始的な人のある姿である。

現代人はただ欲を隠して生きているともいえる。ただよく観察すれば、現代人も弱肉強食の世の中に生きている。

貧困層である社会的弱者が、知識人や富裕層に食い物にされている図式が、少なからずある。資本家と労働者の関係、大家と店子の関係、持たざるもの、無知なものが収奪されている世の中なのだ。それは銀行家やら、証券マンやら、保険外交員やら、政治家やら、会計士やら、医師やら、弁護士やらの皮を被りながら、平気で強奪してしまうのだ。無知であるものを嘲笑うかのように。

そう人は一皮剥けば、獣であるからこそ、ずる賢くも生き残ってきたといえる。ヌメリとしたイヤラシさがなければ子どもは生まれない。一種のだらしなさから生まれた子どもが、たくましく生き残ってきた結果としての人間なのである。